

中田のサッカーも43年です。100年へ向けてますます進化してほしいと想っています。 「ベテラン」と呼ばれる域に達したチームには、そこに到達するまでに至る訳があると思います。

ベテランチームとしての姿勢、また、高慢にならずに謙虚になる気持ち。 地道な日々の鍛錬、勉強。怪我をしないように、日進月歩のごとくコンディションとモチベーションを絶えず整えておくこと。それらを継続させる為の精神力。和こそ力なりの精神で、どんなに困難なプロセスや不本意な結果になっても、機会があればいつでも心から一丸となって全力を尽くしてくれる ――――
選手のために、チームの為に、応援する方たちの為に…
派手なゴールシーンや華麗なパフォーマンスや記録だけが、サッカーの醍醐味じゃないと教えてもらいました。そんな中田のサッカーに関係する方々、生徒たちからいつも元気をもらってます。「応援しがいのあるチーム」を応援させて頂けている事を誇りに思います。そしてそれは過去形ではなく、これから先も100周年まで続いていきます。対戦させていただくチームの方々にも大いにありがたいと心から感謝しております。
切磋琢磨する意味でも中田のチームの活性化の為にも、大変勉強をさせていただいております。
「中田のサッカーはどうですか?」と聞かれた時に、私は胸をはって「すばらしい地域の生涯スポーツのできるサッカーのチームです。」と答えています。それは、中田のサッカーが43年もの歴史による様々な経験があるからです。
時代の流れで、宮城県にも多くのクラブチームや営利を目的としたチームも台頭してきております。私も営利を目的追求している会社を運営する人間としての立場から、営利を目的とすることが悪いと言っているわけではありません。要するに、生徒がチームを選ぶ時代になってきているということです。
「過去の武勇伝など何にも役に立たない」という意見も耳にしたこともありますが、この43年の積み重ねからくる経験と知恵は決して不変的なものであり、簡単に崩れるものではありません。中田のサッカーに関わった皆さんは、中田のサッカーを通じて数多くの人との出会いが生まれ、人生の師と仰ぐ指導者の先生方や先輩たちから多くの事を学びました。

良い試合をするために、そして立派な大人になる為に、日々の元気な挨拶から始まり、トレーニング、帰りのさよならの挨拶まで、何回も何回も繰り返して参りました。この日々の単調に見える活動の中には「自分が学べるチャンス」「心を磨くチャンス」が多く潜んでいます。
日本のサッカーの師といわれるデットマールクラマーさんは「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にするスポーツである。」と言っています。私自身も幼少時代から大人に至るまでは一筋縄ではいかず、様々な喜怒哀楽があったからこそ中田のサッカーに関わることに私個人としてお役に立ちたいと考えております。
中田のチーム並びに生徒は常に勝つことばかり、一番になることばかりを教わったわけではありません。一番を目指さなくても、それぞれの生徒にとって「自分サイズのやりがい」を教えてもらえます。たとえば技術的なことであれば、自分の好みのプレースタイルが分かれば、たとえ小学時代に活躍の場が少なくても中学、高校と進むにつれ、自分の特徴を自分自身で知った上で、自信を持ってプレーできるようになります。
詳細は後述しますが、実際に私も中田スポーツ少年団の卒団生ですが、小学時代はAチームのレギュラー選手ではなく、Bチームの選手でした。しかし中学、高校と自分の特徴を活かしたスタイルで、高校サッカー選手権に宮城県代表としてスターティングメンバーとして出場することができました。
また昨今、サッカーのやりすぎ、勝ちを求めすぎる余りに起こる燃え尽き症候群の子や、オズグッド病・サッカー膝、成長痛にもかかわらず、コーチがオーバーフロー気味の練習を課したり、生徒がチームメイトにレギュラーを取られまいと痛いのを我慢して痛い事をコーチや親に告げず、過度に症状を悪化させるケースがあるとの報告を受けています。
中田のサッカーの指導者は日本体育協会、日本サッカー協会のライセンスを保持しており、各学年ごとに成長とトレーニングの相関を捉えたスキャモンの法則に則ってトレーニングを行うため、身体や精神にストレスのかからない指導を実施しています。
特に小学生は神経系の発達が著しいゴールデンエイジですから、神経系を伸ばす丁寧な指導を心がけています。また、サッカーの神様ペレが「10歳から12歳に人生の師に出会った」というコメントがあったようにこの時期はとても大事な大切な時期です。

中田のサッカーは小学生から中学生(ジュニアユースクラブ)、そして東北リーグ1部に所属する中田クラブ、仙台市のリーグに所属する中田85、そしてリーグに属しませんが、OB有志で集まる中田2000があります。
中田のサッカーの歴史も43年目となり、卒団したOBの先輩は様々な場面で活躍されております。ぞれぞれに関係する方たち、団員、指導者、ご父兄の皆さんは、この歴史が最大の財産であり特徴である事を受け留め、誇りを持って活動しております。
活動も各カテゴリーに相互リンクして行われており、たとえば中田クラブの先輩たちがウィンターリーグでの試合当日、中田スポーツ少年団の小学生が随行して、前座の試合を行い、試合後は中田クラブの先輩の応援を行ったり、横須賀遠征に中田スポーツ少年団が行く際に中田2000の先輩たちが、帯同して横須賀のチームと試合をしています。
私は昭和52年から昭和56年に仙台中田スポーツ少年団サッカー部に在籍いたしました。現在は2人の息子が仙台中田スポーツ少年団サッカー部に二代に渡ってお世話になっている団員です。現在私は、会社を経営しております。

もし、少年時代に仙台中田スポーツ少年団サッカー部に入っていなかったら、今の家族も、会社経営の自分はないだろうと思っています。仙台中田スポーツ少年団サッカー部に所属していたからこそ、様々な方に出会い、また経験し、様々な場面での判断力、決断力、勇気、闘志が養われたと実感しております。
そういった意味で、とても仙台中田スポーツ少年団サッカー部には感謝の念で堪えません。仙台中田スポーツ少年団サッカー部は平成18年度、平成19年度ともに全国少年サッカー大会宮城県予選で、ユアテックスタジアムまで勝ち残ったことは、本当に先輩として、サポーターとしてうれしいことでした。
ただし、勝つことだけではなく、明るく挨拶をする。約束を守る。しっかり食べる。自分のことは自分でやる。思いやりの心で接する。などの大人になる時に大事なマナーをしっかり教わることは仙台中田スポーツ少年団サッカー部が発足して43年、なんら変わりはありません。

昭和52年当時小学2年生だった私は、赤間さんという中田の公民館で働いているお兄さんが中田小学校の校庭で、頭で何回もボールをついているところを見かけ、すっかりとりつかれました。「僕にも教えて」と赤間さんに声をかけたのが、入部のきっかけでした。
その当時の私は、何にでも興味を持つことに加え、実家で印刷屋(渡辺印刷所=お客様商売)をやっていたこともあり、親から常々「ちょっとでも知っていたらあまり知らない人でも挨拶しなさい。」「自分から進んでお人とお話をしなさい。」「周りの人には他の人以上に気を遣いなさい。」「お人から好かれるように努力しなさい。」と教えられていたこともあり、土曜日のたびに自分の目に入るボールリフティングをする赤間さんの姿が、サーカスの魅力のように見え私から声をかける運びとなりました。
当時、2年生は私一人でしたが、一番下の学年ということもあり、先輩にはとても可愛がってもらいました。当時5年生には俊行君(現東四郎丸でコーチとして活躍)、阿部達郎さん、佐伯さん(共に卒団後東北リーグの中田クラブで活躍)、また、一年上の先輩に新田君(利府高校サッカー部監督)がおり、よく遊んでもらったのを覚えています。
私が入団当初、同学年の子はおらず、私一人ではつまらない為、また高学年になったら同じ学年で試合が出来ないのではないかと考えてこんでしまい、これはまずいとすかさず同級生で緑寿司の太っちょの藤田君(のちに中田スポ小サッカー部監督、育英高校在学時正GKとしてインターハイ出場。
入団時は明らかに肥満児だった藤田君がゴールキーパーになったのは単純にドッジボールが一番強かったからです。)を誘い、のりボー(恵美則彦君(育英高校在学時インターハイ出場)、ドン丸(阿部克彦君)、足の速い守武彦君(現仙台中田ジュニアユースクラブコーチ)、運動能力の高い秀ちゃん(阿部秀敏君、後に中田中学校サッカー部キャプテン)、体の大きい真ちゃん(真吾君)、長谷部守彦君、今野誠君などを次々に誘って入団してもらいました。
中でも頭の良い阿部進君を誘うときは、彼が野球をやるかサッカーをやるか迷っていた為、私の兄(現渡辺印刷代表渡辺久幸)が中田・袋原・四郎丸の三地区サッカー大会で買った布のスパイク(野球スパイクでしたがサッカースパイクと偽って)を、「進にあげるから一緒にサッカーしようよ。」と誘ったのを覚えています。見る見るうちに仲間が増えるのはよいのですが、私は体も小さく運動能力も低かった為、巧さではダントツのビリケツでした。
6年時にやっとレギュラー選手になろうかと言う矢先に、四郎丸小学校から浩(菊池浩君。後に東北高校時東北ユース代表・宮城県代表として国体出場。入った瞬間からピカイチの運動能力でとても上手でした。)が入団し、私は一番最初に入団したにも関わらず、Bチームキャプテンとなりました。

6年時に教わった茂木由晴先生(現常盤木学園サッカー部監督阿部由晴先生、全国女子高校サッカー大会全国2連覇)には精神的なフォローをしていただいたのを覚えています。また、6年最後の松島のさわやか杯では、2年から5年まで教わった佐藤博昭先生から、試合前に「右サイドバック賢司」とよばれスターティングメンバーとして試合に出させていただいたことはとても嬉しかったです。
Aチームの試合ではなかなか出場することがなかったので、仲間からもケンボー、ケンボーと声をかけられ、試合中もサポートしてもらったのを鮮明に覚えています。6年生になってもBチームと言うことで非常に悔しい思いもしましたが、まわりのみんなのほうが巧い為、私自分自身も力量を察しており仕方ありませんでしたが、それが現実でした。しかし今ではそれが良かったと思っています。
卒団後は同じ中田スポ少出身の畠山仁君と東北学院中学校に進みましたが、2年時、3年時にはスイーパーとしてスタメンに起用されました。
2年時は新人戦の準々決勝で菊池勲さん(後に東芝サッカー部で活躍=現在のコンサドーレ札幌)、前述の新田君(利府高校サッカー部監督)、斉藤さん(斉藤俊明さん(現中田スポーツ少年団指導者、育英高校時全国高校サッカー選手権、山口インターハイ出場)などを擁する中田中学校と対戦し2−4で敗戦しましたが、中田の先輩・同級生のみんなに「ケンジは頑張ってますよ。」と当時そのような思いでハッスルプレーしていたような気がします。
3年の時は新人戦準決勝で中田中学校と対戦し、東北学院中は、中田スポ少卒団の前述畠山君の決勝ゴールで勝ちました。また、中体連は決勝でやはり中田中学校と対戦しました。試合中延長時に真ちゃん(前述)が足をつった為、相手チームの私がリカバリーしてあげたのを覚えています。試合中でしたが学院のチームメートも中田の仲間もその光景をとがめるひとはいませんでした。
東北学院高校に進み、高校までサッカーを続けた仲間と試合をすることが多々ありました。3年時の高校総体県予選では1回戦仙台一校と対戦し、相手チームには、阿部進君と今野誠君(前述)がいました。決勝で育英高校と対戦し、相手チームのゴールキーパーは藤田君(前述)でした。

全国高校サッカー選手権では準決勝で宮城県工戦では中林英治君(中田中出身、後に中田クラブで活躍)と、そして決勝戦の東北高校戦では、いみじくも小学時に入ったときから上手かった菊池浩君(中田スポ少出身)、庄司健ちゃん(現中田ジュニアユースコーチ)がおりました。東北学院はエースの加藤望君(向山少年団→東北学院→東海大学→柏レイソル→湘南ベルマーレ(19年J2の50節仙台戦で2得点をあげる。)の活躍で宮城県予選を優勝することが出来、念願の国立競技場で行進し、全国大会のピッチにスタメンで出場することが出来ました。
高校サッカー選手権について私の中での印象は私が小学3年の時に仙台育英が愛媛代表を破ったヒーローインタビューで、中田の先輩2人(阿部勝男先輩(現在、和食処多和喜の親方さん)、菊田先輩)がヒーローインタビューを受けたのをテレビで見た時は、僕も高校生になったらこうなりたいなと思ったものです。
高校を卒業後、知り合いの佐藤弘道さん(現西多賀の指導者)からの誘いを受け、西多賀サッカースポーツ少年団で3年間少年指導に携わることが出来ました。その後約5年間、生まれ育った仙台中田スポーツ少年団サッカー部の指導に携わりました。当時、既に仙台中田スポーツ少年団サッカー部には同級生の阿部進君、緑寿司の藤田好宏君が後輩の指導をしておりました。

とても有意義な環境の下、日本サッカー協会地域C級指導者免許を取得し、東日本サッカー指導者講習会にも室蘭で1週間缶詰になりながら、全日本少年サッカー大会の運営の立場の田中純二先生(愛媛大学教授)から理論と実地講義を受けました。
中田で指導を始めた時、低学年からの持ち上がりで一つの学年を受け持ちました。その学年には後に中田スポーツ少年団で指導者となる目黒正晃君、渡辺大輔君、そして今中田クラブで活躍する福山大地君などがおりました。
中田の指導をしていた時に一番印象に残っているのは、私が小学6年時から交流が始まった横須賀の地で開催される横須賀カップにおいて準決勝で埼玉の大東さんに勝ち、決勝戦で静岡の藤枝さんに勝って優勝したことでした。
当時総監督の庄司先生からのアドバイスで、緻密な年間練習スケジュール、生徒の資質と性格を踏まえた戦略でFW、MFにサイドバックを入れた8人の攻撃が出来たことは思い出となっています。
横須賀遠征は子供たちにとって中田と違う環境の場所で冬に開催されると言うこともあり、生徒が急に熱を出しながら試合にどうしても出たいとせがまれ、引率していたその子とは別のお母さんに座薬を入れてもらって試合に出場する子がいたり、またキャプテンの土壁健一君(大阪で4月より小学生の教諭)は、遠征帰りの南仙台駅でお迎えに来ていたご父兄さんに挨拶を終えた瞬間に、キャプテンとしての責任の緊張が取れ、嘔吐してしまった時は、小さい子達がよくがんばったと涙が出たものでした。

私が指導に当たらせていただいた学年は、小さい子も、肥満児の子も、運動能力の低い子も、女の子もおりました。
決戦時はどうしてもトップチームで闘わなければなりませんが、指導に当たった時に特に心がけたことは、そこで試合に出れない生徒達に練習試合を積極的に組んだり、私自身の経験則をお話したり、気持ちのケアをして求心力を持ち続けてもらうことでした。一人だけでしたが4年の途中でやめた生徒がおり、それはコーチとしてとても悲しいことでした。
また、前述の横須賀ベアーズとの交流は私が6年の時から始まり今でも続いています。そうした遠征は、参加した生徒には思い出となり、また中学、高校に上がった時に関東のチーム相手でも物怖じせずにプレーする糧にもなってきます。また、同じく6年時ゴールデンウィークに行った古河カップ(茨城)は、当時全国大会決勝の2チーム古河JYC(ホームステイ)、町田FC、オール甲府などと戦ったことは、その後の中学高校時代も全国相手に臆することなく戦えた要因と思っています。特に町田FCは恐ろしいほどのダイレクトプレーの連続だったのを覚えています。
中田では良いところを伸ばすことも指導の重点に置かれています。私が低学年を指導していた頃、何事も積極的にボールに向かう子はほめちぎってばかりいたので、総監督の庄司先生から当時の竹下首相にあやかってほめ殺しというあだ名を付けられました。

私自身小さい頃から、人からボールを奪うのが好きでした。インターセプト、振り向かせない、振り向いた瞬間、トラップした瞬間、ワンサイドカットなど、特にルーズボールからのせめぎあいはとても好きでした。普通ならシュートが得意、フェイントで相手を抜くのが得意となるかもしれませんが、小学生の時に相手からボールを奪ったときはよく先生にほめられました。
それが好きになったきっかけかもしれません。変わっているかもしれません。スピードのある選手にはめっぽう弱かったですが、テクニシャンタイプに対しては中学高校時代に絶対的な自信を持って対峙していました。しかしながら、左足で蹴るのが苦手、瞬発力がない等、決して巧くはなく、中学時代も高校時代も私より一枚も二枚も上の選手がおりましたが、レギュラー選手として使っていただいたことは感謝しております。
先日母校の東北学院高校サッカー部の総監督壱岐先生(中田小学校卒業)とお食事する機会があり、壱岐先生に対して私は「インターセプトが一番好きでした。」と先生に言いました。また、壱岐先生にこんな質問をしました。壱岐先生から見て私は何が良かったんでしょうか。と聞きましたら、「賢司は中田のガッツと、なにくそ根性があるからいいんだ。」といわれました。

壱岐先生いわく、オール3の選手よりも1が多くても5が一つあればいいんだ、と教わりました。先般、日本代表の中沢選手も選手としての能力に悩んでいた時、岡田監督から、自分の特徴を活かしてくれることを見出された逸話を話されておりましたが、私が指導していた当時庄司総監督からもよく良いところを伸ばし、その選手(チーム)の特徴にしていき自信をもたせる指導と言われましたが、これは社会人になった今でも変わりありません。
現在、経営の立ち場にありますが、求人面接や人事評価の際にはごく普通の人よりも一つでも特徴のある方に興味を示し、その特徴をほめて成果を上げてもらうようにしています。
東北学院中学高校総監督の壱岐先生と食事の際に、「横浜で頑張っている佐野(株式会社タスク佐野寿宏社長・横浜みなとみらいのランドマークタワーに本社)や賢司が関東で汗を流して会社経営をしていることは指導者冥利に尽きるよ」とおっしゃっていただきました。
昨年のゴールデンウィークに岩沼で中田スポーツ少年団サッカー部とジュニアユースクラブが合宿をしている時に、私の教えた学年の生徒たちが15人集まりジュニアユースクラブと対戦しました。やはりプレースタイルは小学生の時と変わりませんが、上手くなったと思いました。
夜は食事会を開いてもらいましたが、社会人として逞しくなった彼らとの会は本当に嬉しく思い指導者冥利に尽きる思いでした。幹事をしてくれた石田匡史君は、小学時代は私の幼少時と同じサブのメンバーでしたが、よく取りまとめてくれました。感謝しております。

私がここに記しました事柄は単なる自慢やPRではなく、私自身が中田のサッカーを教わった小学時代に試合に出る数がたとえ少なくても、その後どこに行っても通用する選手を育てる指導をしている事実をいいたいのです。
挨拶、整理整頓、団体行動、きちんと生活すること、又、人への思いやりの心を鍛えてもらえること。ともに基本技術とポイント、個人戦術とポイントを丁寧に教わる為、中田で教わるサッカーは質が高いと自負しています。
佐藤博昭先生から教わった個人戦術(1)ボールに寄る。(2)回りを見る。(3)パスアンドゴーや組織戦略の「相手の少ないほうから攻めろ。」「相手の特徴を消して自分たちの特徴を出せ」「狙いは速攻、無理だったら人を増やして(方向を変えて)遅攻」などは今でも仕事でも役立っています。
たとえば(1)ボールに寄る。=積極果敢に自ら仕事に取り掛かる。(2)回りを見る。=頭はいつもフル回転。四方八方みて空気を読んで、お人に気遣いをする。または仕事をする。(3)パスアンドゴー=ひとつ仕事をフィニッシュしたら次の仕事にとりかかる。または次の仕事の段取りをする。と比喩して捉えて仕事をしています。また、組織戦術においては孔子の兵法、ランチェスター戦略など現在ビジネスでも使われているものと同じです。
中田のサッカーで教わった戦略・戦術は社会人になった当初から現在でも大いに役立っています。

中田カップ並びに中田に指導においでいただきましたマリーニョさん、尾崎加寿夫さん、柱谷幸一さん、松木安太郎さん、ジーコ監督のお兄さんのエドゥーさん、清水秀彦さん。そして昨年無理を言って中田で記念講演をしていただきました元帝京高校サッカー部監督の古沼貞雄先生、ご多忙の中、アカデミーレッスン及び講演をしていただきました元読売ヴェルディのゴールキーパーの藤川孝幸さん(本年度福岡のGKコーチ)、元川崎フロンターレのゴールキーパー鈴木洋平さん、中田カップの際に中田と出場チームの自ら出身の向山さんにサイン入りボールを寄贈していただいた元柏レイソル現湘南ベルマーレの加藤望選手(向山出身)、また、中田の子供達にプレゼンしてくださいと60枚もの色紙にいやな顔ひとつせずにサインを書いてくれたベガルタ仙台の千葉直樹選手、マネージメントの際、ボランティア的に中田のサッカーに支援していただいている高橋健登さん(安貞桓さん(アンジョンファンさん)洪明甫さん(ホン・ミョンボさん)柳想鐵さん(ユサンチョルさん)黄善洪さん(ファン・ソンホンさん)など来日時、日本チーム所属時に通訳として活躍)。
中田の更なる発展のためにご尽力いただきました皆さんのご教示ご支援には、心から感謝しております。

私も幼少時代に中田の公民館でセルジオ越後先生にコーチングしてもらったり、中田出身で日本代表になった渡辺由一さん(元東洋工業=広島)にサッカー教室をしてもらったことは今でも思い出に残っております。
本年度も機会がありましたら、私自身中田の子供たちのために様々なイベントの黒子としてお役に立ちたいと考えております。そして最後に、仙台中田スポーツ少年団サッカー部に関わる先輩諸氏、ご父兄様、OB様そして子供たちに夢を与え、卒団してもサッカーの出来る環境を与えてくれる中田クラブ、中田85、中田2000の先輩はすばらしい地域社会への貢献を継続していただきありがとうございます。
引き続きまして一人でも多くの子供達に中田のサッカーのすばらしさと感動をお願いいたします。ご興味のある方、チームの方もぜひお気軽にグラウンドまでお越しくださいまして中田のサッカーに触れてください。お会いできる日を楽しみにしております。